Archivements of Founder
横尾 忠太郎
- 生い立ち
- 忠太郎は、明治27年(1894年)に甘楽郡富岡町字曽木(そぎ)で、横尾家の長男として生まれました。
15歳で高等小学校を卒業した忠太郎は、経済的な事情と家族への思いやりから、中学校進学をあきらめ、住み込みの丁稚奉公に出る決意をしました。奉公先は、東京のクダ屋です。
クダ屋というのは、主に懐中時計の部品として使う、直径1ミリ以下の精密な金属パイプをつくる職人です。忠太郎はひたすら、精密パイプ加工の腕を磨きました。
職人から経営者へ
- 職人から経営者へ
- 15年間、パイプ加工に打ち込んだ忠太郎に、転機が訪れました。大正11年、31歳のときに独立して自転車屋を開業。大正15年(1926年)には、職人として15年間培った技術を活かし、東京の向島に精密パイプ加工工場を開業します。
こうして、株式会社ヨコオの前身、横尾製作所が創立されました。
苦境を救ったバネ棒の発明
- 苦境を救ったバネ棒の発明
- 昭和初期に腕時計が懐中時計に取って代わると、それまで懐中時計の蝶番に使われていた精密パイプの需要が減少しました。
そんなとき、目をつけたのは腕時計のベルト取り付け部品でした。昭和3年(1928年)、パイプ加工の経験を活かして、細いパイプの中にバネを仕込み、両端が伸縮するバネ棒を発明しました。この画期的な腕時計ベルト取り付け部品は、やがて全世界で製造される腕時計に使われるようになり、世界一のシェアを獲得します。
躍進の原動力となったロッドアンテナ
- 躍進の原動力となったロッドアンテナ
- 事業が大きく躍進する原動力となったのは、携帯ラジオの「ロッドアンテナ」でした。ロッドアンテナはパイプを組み合わせてつくります。パイプの精密加工はお手のものでした。
昭和31年(1956年)、忠太郎は技術者とともにパイプ職人としての経験を活かし、工夫をこらした結果、ロッドアンテナが完成します。その品質は主要家電メーカーから高く評価され、やがて世界一のシェアを獲得します。
いち早く富岡市に工場を設置
- いち早く富岡市に工場を設置
- 昭和30年代半ばになると、トランジスタラジオの普及とともにロッドアンテナの需要が急増し、世界中の家電メーカーから注文が殺到しました。
これに対処するために、富岡市神農原に工場を新設することを決定。昭和37年(1962年)から稼動を開始しました。折りしも明治時代の初頭から富岡の経済を支えてきた繊維産業が成長にかげりを見せ始めた時期。
東部工業団地に先駆けて新設された横尾製作所神農原工場は、富岡市の産業の未来を予測させるものでした。
富岡市とのかかわり
- 富岡市とのかかわり
- 昭和26年(1951年)、富岡町議会議員に初当選しました。その後、市議会議員、市議会議長を経て、昭和40年(1965年)5月に富岡市長に就任しました。この間に関東市議会議長会理事、全国市議会議長会新市整備対策委員等を務め、町村合併の実現に努力した功績により自治大臣より感謝状を授与されました。
また、市長時代には小中学校共同給食センターの建設を実現しました。一方で、昭和33年から40年まで富岡商工会議所の副会頭、会頭を歴任し、商工業の発展に貢献した功績により、群馬県知事より表彰を受けました。
晩年
- 晩年
- 4年間の市長の任期を無事に務め終えた忠太郎は、横尾製作所の会長、相談役として経営に携わり、昭和52年(1977年)6月30日に逝去しました。享年82歳でした。